この記事は「09年5月頭頃のチェコのプラハ、聖キリルと聖メトディウス教会(正教会)」の続きです。
記事等々が かなり遅れてしまっており、申し訳ございませんですワン〜
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ね、年末の月ですね…なのですワン
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今回は、聖キリルと聖メトディウス教会での落下傘部隊…のお話なのですワン。
まずはこのブログ用の位置地図からなのですワン↓。
水色の点が、現在地ですワン
ノ。
再び、聖キリルと聖メトディウス教会の前の像のアップですワン↓。
像、左側の人の装備と、下の落下傘のマークに注目。
ここで何が起こったのかというと…
第2次世界大戦の折り、ナチスドイツはチェコ(・スロヴァキア)に対して「お前さん、か弱いから保護して あ・げ・る
」として勝手に乗り込み、「お前さんたちを監督する偉い人をプラハに置くから、その人の言う事をよく聞いて、ナチスドイツのために軍需品とか作ったりすれば良いじゃん
」と、ナチスドイツの役人を置いてみたのらしいのですワン。
…1人目の お役人は、ナチスドイツにとっては、あまり働きが良く無かったようで、2人目の お役人、 ラインハルト・ハイドリヒ副総督を代わりに置いたみたそうですワン。
この副総督、当然 抵抗勢力があれば最悪 消してしまうか収容所送りにしますが、ナチスドイツのための軍需工場などで黙って働いてくれる人々は優遇し、その他にも、親しみ易い印象を与えるような演出もする人だったらしいのですワン。
こうすることで、抵抗勢力を減らしていく凄腕の副総督だったらしいのですワン!!。
しかしナチスドイツに対抗するイギリス、その国内に居たチェコスロヴァキア亡命政府?が副総督の暗殺を企み、やはりイギリス国内に居たチェコスロヴァキア亡命軍人数名を航空機にてチェコへ送ったらしいですワン。
この軍人さんたちは落下傘にてチェコ国内へ入った後、副総督への数種類の暗殺案を試みた末、最終的に1942年5月27日にプラハ市の「ブロフカ病院」近くのトラムの停留所付近にて待ち伏せし、オープンカーにて出勤途中の副総督を強襲したらしいのですワン。
副総督の乗った車がホレショビツェ通りを通過するのを、ブロフカ病院の近くのトラムの停留所にて待ち伏せしていた…とWebでの情報には載っていましたので、「ここなんじゃないかな?」と思われる位置を探してみましたワン↓。
トラムの停留所の名前が、多分「ブロフカ」なのですワン。
この画面、下の位置に2つある緑色の十字マーク、左側の方の更に隣りの緑色のマークが、「ブロフカ病院」っぽい表示が出ますワン?。
ご興味のある方は、Mapy.czをご覧になって下さいませですワン
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遠景で撮ってみますですワン↓。
え?、そこまでしなくて良い?…ていうか…
もし間違っていたら、ごめんなさいなんだワン〜
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その際 負傷した副総督は、その数日後に「ブロフカ病院」で敗血症(重症感染症)により死亡したようですワン。
このことに怒ったナチスドイツの偉い方々は、よく調べもせず、6月に入ってから まずリジツェという村の男性を銃殺、女性と子供は収容所送りにさせてしまい、その後…レジャーキ村の人々が、この暗殺に関わった亡命軍人さんたちに協力していたということを突き止め?子供以外の全員を銃殺してしまったそうですワン。
この子供の中から「今後の未来あるナチスドイツのため」となりそうな、多分、金髪碧眼の子供を選んでナチスドイツ国内へ送り「レーベンブロイ(生命の泉)計画」も、しっかりと行っていたらしいのですワン(大戦後、子供はチェコへ戻されたようです)。
ナチスドイツのための(外観からしても)優秀な、ナチスドイツのための人材として、産めよ増やせよ、ついでに近隣諸国からも金髪碧眼の子供も連れて来て育てちゃおう!、という計画「レーベンブロイ(生命の泉)の件」は、「僕はナチに さらわれた」というポーランド人さんのノンフィクション本(日本語訳)から、それに継ぎ昨年末辺りに日本国内で上映されたチェコ映画「英国王給仕人に乾杯!」も観て知ったこと(チェコ映画では「レーベンブロイ(生命の泉)計画」という明確な説明はしていない)なのですワン。
しかし、選ばれなかった子供たちは強制収容所へ送られてしまい、ほぼ殺されてしまったようですワン。
この辺りは、ひょっとすると「背丈制限」に引っ掛かってしまった可能性がありますワン。
「背丈が低い」⇄「働けない者」として、子供用に設置されたバーをくぐってしまうと、そのままガス室送りになる強制収容所もあったらしいのですワン。
追加…と思って、ちょっとWebで調べてみましたら…送られた先が「強制収容所」とは異なる「絶滅収容所」だったようですワン(涙)。
背丈制限どころの騒ぎでは無かったですワン…(号泣)。
その後、報奨金 目当てにナチスドイツに密告した男が居て、1942年6月17日、この亡命軍人さんたちに協力した家族が捕まってしまい、この聖キリルと聖メトディウス教会が突然ナチスドイツ軍人たちに囲まれ、銃撃戦の末、この教会内に隠れていた亡命軍人さんたちは銃殺され、そのうちの数人は、この教会内で自害してしまった…ということらしいですワン。
密告した男は、戦後、自殺に失敗した挙げ句、ナチス協力の罪で処刑された…らしいのですワン。
像には、1942年6月18日と書いてありますワン。
こちらでは、日・月・年の順番なのですワン。
そして、プラハで売られてた教会のガイド本「PRAGUE DETAILED PICTURE GUIDE」によりますと、多分この像が作られたのは、1947年のようですワン。
この事件は「エンスラポイド作戦」等などで検索すると、詳細が書いてありますワン。
歴史などが知りたい方は、合わせて調べてみて下さいませですワン。
関連項目として、この事件を元に作られた映画情報もあるようですワン。
壮絶な悲劇の起こってしまった場所、ということが判りますワン。
あちらこちらに、ご冥福をお祈り致しますですワン † 。
次回も、聖キリルと聖メトディウス教会の写真展示の予定なのですワン。
遠景写真、内部の写真はございません、申し訳ございませんですワン
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